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学長のつぶやき。

フィリピンでのクリスマス

2017年12月22日の朝、関西国際空港から、香港、マニラを経由し、フィリピンのミンダナオ島にあるカガヤン・デ・オロ市を訪れた。私の海外経験の原点であり、私の学生生活の一つの転機となった思い出の地である。

 初めてこの地を訪れたのが1976年の2月。大学1年の終わりに、知り合いのアメリカ人の先生に声をかけられて、約一ヶ月間の滞在予定で20人の大学1,2年生と共にこの地に立った。人口10万人強であったが、町には信号は一つ、道路は市の中心部以外は土で未舗装、車はジープニーという乗合ジープが多く、日本では廃車になっていて当然のような車がほとんど。ココナッツ油での揚げ物が多い食事にも、トイレやシャワーにも苦戦したが、ザビエル大学という現地大学の学生達とは、本当に楽しい時間を過ごし、ホームスティ先の家族とも、決してうまくない英語ではあったが、本当の家族のように過ごすことができた。

 その後、77年と78年に2度訪れたが、その後は恩師を通じての断片的な情報しかなかった。
 ところが、一昨年の恩師の他界後、引き寄せられるように縁が繋がり、2017年には2組の友人達が来日した。当時の日本人の仲間達と共に、彼らに再会し、旧交を温める機会に恵まれた。日本人の仲間3人ともほとんど付き合いは薄れていたが、皆でカガヤンにもう一度行こうという話が出て、このクリスマスに訪れる決心をした。仕事でも観光でもない、現地3泊機中1泊の5日間の旅である。
 朝出発して、乗り継ぎ2回を経て到着したのは現地時間の22時前、3人の旧友が空港に迎えに来てくれた。人のことは言えないが、彼らも容貌、体型、髪が大変貌!40年の時間を感じる。
 翌日の夕方、友人の家で持ち寄りパーティ。ホストが提供してくれたのは「レチョン」という豚1頭の丸焼き。私たちも日本から持っていった材料と道具で、お好み焼きを汗だくになって作った。豚肉をスライスするのが大変だった。日本の肉屋やスーパーで薄切り肉を当たり前のように買うことができるありがたさを再発見。"ジャパニーズ・ピザ"と説明して提供した。最初はおもしろがってくれたが、持ち寄りのごちそうが増えると、結局は売れ残った。ホストの友人のお誕生日パーティを兼ねたパーティなので、知らない人も10人はいたが、それでも20人以上、30人以上が来てくれた。うれしい!中には誰かわからない人もいて、皆60~70代だが、若いなあと思う人も。ホストファミリーの兄のボーイも登場!懐かしさで思わず抱き合う。約3時間、スピーチや出し物も特にはなく、会話が最大のつまみである。夜7時頃からのパーティも10時をまわってやっと集合写真。その勢いで、マニーという旧友が歌い始め、「いつまでも絶えることなく友だちでいよう・・・」と日比の合唱が始まり、再開の宴はお開きになった。

 翌クリスマスイブの夜は別の招待を受けていたので、朝から一足早く教会のクリスマスミサへ友人達と参列、その後、懐かしのザビエル大学のキャンパスを訪問。空き地の多かったキャンパスに建物が増え、大変貌しているのに驚くと共に、40年前を懐かしく思い出す。昼食は郊外の海に面したレストランでとり、ホテルに戻ってみると前夜来られなかったホストファミリーの妹ダリーからメッセージが残されていた。早速コールバックすると、近くに来ているということで、懐かしの再会、思わずハグするも、お互いに涙がこぼれそう。一緒に来た夫タタも友人で、前夜のマニーの弟。聞くと、彼らはかつて私がスティした家に今住んでいるという。思わず「家を見たい!」と、そこから家へ急行した。

 周囲に家が建ち並び、かつては、ほこりだらけで未舗装の国道をオンボロの乗合ジープニーが行き交っていた郊外の家が、すっかり都市の中に飲み込まれていた。自分が滞在した部屋を懐かしく写真に収め、亡くなった両親の写真も撮影し、ホテルに戻る途中、タタの実家(マニエルの家)に立ち寄ることになった。

 家に近づくと、2日前にミンダナオ島を直撃した台風(島全体で250人以上の死者)の傷跡があちこちに目立つ。川に近く、洪水になって、水没した地域である。水はやっと引いたようだが、土は泥状態。家具や家電は水没した後が生々しく、電気はやっと回復したようだが、水道は止まったままなのか給水車が駐まっている。タタの実家に、ダリー、タタ夫妻と3人で到着すると、入口近くの椅子に半ば放心状態でマニーが座っている。我々に気づき立ち上がったが力ない。こちらも気の毒すぎてかける言葉が見つからない。壁についた水の跡を見ると1.5mは水没したようである。6年前にも台風で被災し、その時には1階が完全に水没し、車もダメになったというので、それよりはマシだという。

 2日前にこのような被災をして、そのことをおくびにも出さず、よくぞ昨夜のパーティに来てくれ、日本からの旧友と楽しそうに過ごし、日本の曲を歌い出した彼のホスピタリティに感動を覚える。私や、我々日本人に、このようなことができるだろうか。フィリピンのタガログ語には「パキキサマpakikisama(仲間の感情)」という言葉があるが、日本語で言えば"一心同体"に近い親近感を、自らの危機にあっても示してくれたのだと感じる。"以愛為園"はここにもあるのだと思った。

 最終日、空港に向かうクリスマスの国道は前日までと比べ、渋滞もなく車は少ない。クリスマス当日は午前中ほとんどの店は休みになる。イブは日付が変わると、あちこちで打ち上げ花火が上がり、深夜ミサを終えたフィリピン人の長い夜が続いていく。その反動か、翌日は静かである。ふと気づくと信号が消灯している。聞いてみると、車も少ないので信号の電源を警察が落としているという。驚くばかり。現在、ミンダナオ島は西部のサンボアンガ市にISのゲリラが潜伏しているということで、全島戒厳令下にある。確かに、ショッピングモール、ホテルや空港などの出入口では、セキュリティチェックが行われ銃を持った警備員がいる。しかし、本気でチェックしているとは到底思えないし、緊張感もみられない。街の市場は朝までやっている。フィリピンらしい明るさと、ある意味でのいい加減さ、そして温かい人々。普段の時間とスケジュールに追われる毎日とは隔絶した3日間のリフレッシュ休暇であった。

 本学の学生にもこうした思いや経験をしてほしいものである。